井波別院瑞泉寺を中心に、この地には、約600年前から、浄土真宗の教えが根付き、お浄土の徳が土にまで しみ込んだ 不思議な土徳があります。
初めに「土徳」の ご紹介です。
「おかげさま」と感謝する「他力」の精神風土
この地には蓮如上人以来の伝統で、他力の思想、精神風土がありました。
他力とは、自我を主張するとか、個人主義とか、自分だけ得すればいいという考えとは 反対に、生きること自体を「おかげさま」と人々が互いに感謝することなのです。〈中略〉
この地域の人々の人生に対する態度を一言で表現すると、感謝の気持ちです。
感謝のない幸福 というものは 果たしてあるのでしょうか。お金持ちが幸せだと思う感謝もありますが、それは 自分の幸福に感謝している だけです。
これに対して、この地の人たちの感謝は、全方位、ありとあらゆるものに感謝しているのです。「仏さま」だけでなく、「人さま」という言葉もあるほどですから。
この地では、感謝の気持ちが基盤になって地域社会がつくられているのです。個人主義と違うものですが、しかし、どちらが幸福を達成できるか、少なくとも、幸福感を持っていられるか、ということだと思うのです。
次に風土、つまり豊かな里山があります。里山があることによって感謝が具体化します。実り とか 自然 とか に 感謝を捧げられるのです。
もう一つは 真宗独特のもので、お講があります。お講は共同体です。皆で語り合いながら、自分が気づかされるのです。自分が研究して何かをつかむという発想でなくて、周りの人に気づかせてもらうということ。吉川英治風に言えば、宮本武蔵に言わせたら「我以外皆我師」の精神なのです。極端に言えば、
泥棒だろうが なんだろうが 皆師、つまり、「人さまによってお育てに預かる」
という発想を持った社会。これがつい最近まで、現実にあったわけです。
「結(ゆい)」も そうです。私たちの生活も仕事も一人では できません。
五箇山の合掌造りの屋根も かやぶきの仕事は一人の力、経済力で できるものではありません。葬式でも結婚式でも、皆が協力し合って生活してきたのです。
お講というのは、仏教思想を媒体として自分を内省する働きがあります。
物質的利益の共同体ではないので、お講に入れば楽だ とか 得するという話ではなく、感謝が深まれば深まるほど、「感謝」の心、つまり、社会や他人に尽くすことですが、義務感ではない 自然な気持ちの発露として行動がでてくるのです。それは意識していないから尊いのです。良いことだから やろうというのでなく、当たり前、空気みたいなものなのです。
だから、棟方志功は『板極道』という著書で、「ここでは誰も彼も、知らずの内、ただ そのままで 阿弥陀さま に なって暮らしているのです」と書いています。棟方志功から見れば そう見えたのでしょうね。
ボランティアをする人は 達成感が得られる といいますが、ここではそんなものは 全然 求めていません。良いことをした という気持ちもないし、良いことをしたから気持ちがいい というものでもありません。
綽如が種をまき、蓮如が水をやり、赤尾の道宗が丹精した越中の真宗
南砺地方の歴史と文化、人々の暮らしは、浄土真宗を抜きにしては語れない。
本願寺五世綽如が明徳元年(一三九〇)、北陸での浄土真宗布教の拠点として井波に瑞泉寺(井波別院)を建立して以来、真宗の教えは この地に干天の慈雨のごとく浸透する。
五箇山では、蓮如の愛弟子、「妙好人(信仰心が篤い在家信者を称賛した呼び方)」と称された赤尾の道宗が、永正十年(一五一三)に行徳寺を開いて村人に教義を説いている。
永禄二年(一五五九)、蓮如が開基した とされる善徳寺(城端別院)が加賀・越中の国境付近から城端の地に移築され、南砺地方は北陸における真宗の一大拠点を形成することになる。
現在わずか六万人が暮らす南砺地方に、本山の代理を務めるほどの格式を持つ「別院」が井波と城端に二つも存在することからも、本願寺が この地をいかに重要視していたか を知ることができる。井波別院は、天正十三年(一五八五)に本願寺が豊臣秀吉と講和するまで、城端別院、勝興寺(蓮如の道場 土山御坊が伏木に移転し建てられた寺院)とともに、越中の一向一揆の牙城となり、時の権力と対峙する力を持っていく。
井波、城端の両別院を核として
こうした歴史的背景のもとで、旧井波町と旧城端町は、中世から近世にかけて両別院の門前町として、また、交易が盛んになった旧福野町や旧福光町は市場町として大いに にぎわった。
井波の瑞泉寺に施されている見事な彫刻は、優れた腕を持った宮大工や彫刻師、塗り師らが京都から呼び寄せられ、残したものである。その技は地元に引き継がれ、井波は木彫美術の町として発展した。現在でもアトリエを構え、彫刻家を目指す若者が全国から集まっている。
善徳寺のある城端には、四百年前に絹織物産業が興り、加賀藩の保護を受け、「加賀絹」の名で京都や江戸へ運ばれた。また、五箇山は和紙の集配地としても栄え、町衆は大きな財を成していく。城端の街が「小京都」と呼ばれる たたずまいを残しているのは、富を蓄積した町衆が京都などに遊びに でかけ、その文化を持ち帰ったことによる とされる。絢爛豪華な城端曳山、粋で哀調を含んだ庵唄が継承され、往時の繁栄を今に伝えている。
旅の手帳 北陸の観光文化情報誌 季刊『彩都』 より
(二〇〇七年一月二十日 石川県金沢市高岡町(株)アドマック発行)
次に井波別院瑞泉寺の ご紹介です。
井波別院瑞泉寺を建てられた本願寺第五世 綽如上人は、大変 偉大な方だったのですが、
『蓮如上人御一代記聞書』第二二三条 善如・綽如両御代のこと
で誤解があり、残念ながら あまり注目されなくなってしまいました・・
本願寺の歴代のご門首には、法然上人が明らかにされた「如来より たまわる信心」ということをそのまま後世に伝えていく、
という大事な役割であり、その歴代が伝えられてきた教え(相伝叢書)を受けて「蓮如さんの教学」があるので、
蓮如さんが歴代のことを悪く言うようなことはありえません。
「よし、わろし」と書かれたのは、
「よいとも悪いとも私には判断することができない」という お気持ちで書かれたのであって、聞書に歴代を否定するようなことを残してしまわれた実如上人の 理解が浅かった と言わざるを得ないと思います。
※ 詳細が気になる方は、下記をご覧ください。
第二二三条 善如・綽如両御代のこと | 真宗大谷派 光琳寺 ホームページ (kourinji.biz)
井波別院瑞泉寺を建てられた偉大な本願寺第五世 綽如上人と井波別院瑞泉寺の ご紹介です。
「井波別院 瑞泉寺の由来」
瑞泉寺は本願寺第五世 綽如上人によって建てられました。
綽如上人は三十八才の頃、北陸の地に浄土真宗の教えを広める願いを持ち、その中心となる真宗寺院建立を志し、京の都から八乙女山の杉谷の地に草庵を構え、人々に親鸞聖人の教えを広めておられました。
その頃、中国から難解な国書が朝廷に送られてきました。その国書を日本の仏教界を代表する方々も
どうしても読みとくことが出来ませんでした。その時、
「綽如上人ならば読めるのではないだろうか」との青蓮院の ご門跡の推薦があり、直ちに綽如上人に朝廷からの使者がまいりました。綽如上人は急ぎ上洛をして、その国書を 悉く読み解かれ、その返書まで認められました。
これによって国の対面をようやく保つことができ、天皇は大変に お喜びになられ、綽如上人に『周圓』という上人号を与えられ、また、
「何なりと望みがあらば申し出るように」との仰せに、綽如上人は
「北陸の地に浄土真宗の中心となる寺院を ご門徒の力によって建てたい」と、
答えられ、直(ただ)ちに、近隣の六ヶ国、加賀・越中・越後・信濃・能登・飛騨から募財を集めることをお許しになられました。 その時に六ヶ国に宛てて、瑞泉寺建立の願いを認め、送られた「勧進状」の一巻が「宝物館」に納められております。
その『勧進状』に使われております紙は、当時の最高級の 砂金の切り金箔が散りばめられた雲上紙で、これは当時の後小松天皇より頂きました物ということでございます。
また、天皇は綽如上人の博学を賞されて、「阿弥陀如来の第十八願のいわれを説くように」との ご所望(しょもう)があり、すべての文官と武官、もろもろの役人たちを一堂に集めさせ、浄土真宗の根本聖典であります『大無量寿経』の ご講義を七日もの間なされました。その お姿が『綽如上人 椅子の御影』として瑞泉寺に伝えられております。
天皇及び臣下の者は、歓喜の涙を流し、益々綽如上人に感銘を受けられ、褒美として宮中の蔵に納められておりました聖徳太子様二歳の南無仏尊像(太子堂に ご安置されている)」と、聖徳太子様の ご生涯を九十三の ご事蹟で画がかれました「八幅の ご絵伝」を賜りました。
尚、綽如上人が朝廷に ご上洛の途中、ご上馬が斬き、その場から一歩も動かなくなり、その足の下から泉が滾々と湧き出てきました。上人は
「これぞ、仏法繁昌の瑞兆なり」と大いに喜び、この地に天皇の勅願を得て、建立されました お寺が「瑞泉寺」です。
また、この霊水が湧き出て尽きない様子から、この地を「井波」と名づけられました。
土徳が生み出した歌だと思います。
2023年3月~4月の「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」では、
ご本山とのコラボがありました!
※ 詳細が気になる方は、下記をご覧ください。
井波彫刻師による東本願寺の彫刻ガイドツアー | しんらん交流館HP 浄土真宗ドットインフォ (jodo-shinshu.info)
次の、初めの方で、
「綽如が種をまき、蓮如が水をやり、赤尾の道宗が丹精した越中の真宗」
とありました、道宗さんの ご紹介です。
砺波地方の妙好人『 赤尾の道宗 』
※ 妙好人-「「妙好」とは「たえなること」。「妙好の華」は、「白蓮華」。
それを「人」に当てはめ、白蓮華のように、信仰や心の美しい妙なる人。
砺波地方では、「赤尾の道宗」と「砺波庄太郎」が知られている。
赤尾の道宗 略 歴(生年不詳(一四六〇年頃?) 〜 没年 一五一六年)
俗名 弥七 出身 五箇山 赤尾谷
四歳の時に母と死に別れ、十三歳の時に父と死に別れ、
伯父の浄徳に育てられる。(両親を失い、人生の無常を強く感じていた。)
十代の頃、蓮如上人(約五十歳の年の差)に出会い、父のように慕われ、
年に一度は、大津であろうと、岡崎であろうと、山科であろうと、蓮如上人のもとを訪れた。
逸 話
その一(十歳の時)
夕食に出た大きな岩魚を目にし、父に、
「罪のない人間を殺すことは悪いことだというのに、
人間が「何も知らない、罪もない魚」を捕って食うても、よいものですか?」
と尋ねた。
↓
幼い頃から、鋭い宗教感覚を持っていた。
美しい川で遊ぶ魚に対して「罪もない」と、深い慈悲の心を表し、
人間の在り方、人間生活の矛盾を強く感じていた。
その二(十三歳以降(両親との死別後))
ある時、伯父の浄徳が 約六㎞ 離れた下流の「小原」に出かけていた。
弥七は、伯父に どうしても会わなくてはならない用事ができ、
「小原」へと向かうこと となった。
(「小原」は、庄川の対岸にあるため、途中「籠渡し」で、
川を渡らなければならない場所であった。)
弥七は、「渡し場」に着き、籠を引き寄せようとすると、なんと、
綱が切れていた。仕方がなく、渡し場にあった小屋で一夜を明かすこと
と なってしまった。
日が昇り、目が覚めると、小屋の外で、小鳥が楽しそうに鳴いていた。
見ると、近くの木の枝の間に、巣を作り、親鳥が
「ピーピーと楽しそうに鳴く雛」に、餌を食べさせていた。
弥七は、それをジッと見ている中に、涙があふれ出てきた。
親がいない我が身の寂しさに、川に身を投げて「死のうか」とさえ
思い詰めていた。
しかし、その時、幸いにも村人に見つけられ、川を渡り、伯父の所まで
連れて行ってもらうことができた。
↓
いつも「親恋しい」という思いを、押さえ付けるように生活をしていたが、
人一倍 繊細な心を持っていた。
その三
ある時、弥七は、
「筑紫の羅漢寺に五百羅漢の石像が安置されており、
誰でも そこへ行けば、親の顔が見つかる」という話を聞いた。
伯父は、なかなか許してくれなかったが、「親恋しい」という思いを
消せなかった弥七は、羅漢寺を目指し、山を降りた。
越中から加賀へ、加賀から越前へと、約百㎞の山越えの道を歩き続け、
越前の麻生津(福井県福井市)という所へ着いた。
夕方になり、一休みしようと、道端に腰掛けると、長旅の疲れのせいか、
そのまま眠ってしまっていた。そして、不思議な夢を見た。
弥七の前に、一人の僧が現れ、
「おまえは、どこへ行こうとしているのか」と尋ねた。
「筑紫の羅漢寺へ参るのです」と 答えると、
「何の目的があって行くのか」と 問われ、
「父母に会いに行くのです」と、正直に答えた。
「それならば、羅漢寺へ行くのは無駄なことだ。羅漢の石像を拝むだけで、
まことに親に会えるわけではない。
まことの親に会いたいのなら、京都の東山 大谷におられる蓮如上人に
会うがよい。まことの親に会う道がわかるであろう。」
と、僧が言われた。
「あなたは、どのようなお方なのですか」と 尋ねると、
「私は、信州更科の僧である」と言われると、姿が見えなくなった。
(「信州更科の僧」とは、善光寺の阿弥陀如来)
夢が覚めると、
(弥七は、越前までの長旅の間、蓮如上人の噂を聞いていたのであろう)
一心に、京都を目指し、歩き始めた。
弥七は、大谷の本願寺に着くと、勢いよく お堂に 飛び込み、
蓮如上人の法話が始まると、目を輝かせ、蓮如上人の顔にしがみつくよう
に、話を聞いた。
そうして、三日三晩、席も立たずに、これまでの
・両親を失い、人生の無常を強く感じていたこと
・罪もない生き物を食べなくてはいけない人間の在り方
・親恋しい という思い
その すべてをぶつけるように、聴聞を続けた。
蓮如上人も、その素朴で一途な青年に心を惹かれ、「道宗」という法名を
お与えになられ、道宗は、蓮如上人を親のように慕われた。
そうして、道宗は、蓮如上人が、井波の瑞泉寺に来られた時は もちろんのこと、年に一度は、大津であろうと、岡崎であろうと、山科であろうと、
蓮如上人の元へ足を運んだ。
その四
道宗は、体の所々に傷跡のようなものがあり、それを見た村人が、
「どうしたのか」と 尋ねても、恥ずかしそうに隠し、その訳を言わなかった。
不思議に思った村人が、こっそりと 道宗の後をつけて行った。
夜になり、道宗が寝床へ行くと、割り木を一本一本、お念仏を称えながら、
並べていき、敷布団代わりに、その上に横になって、せんべい布団をかぶって、
寝ていたのです。
しかし、痛いからであろうか、なかなか寝付けないようで、寝がえりを打っては、
「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と お念仏を称えていました。
道宗の体に、傷が絶えない訳を知り、村人は、
「あんたは、私達に「信じるだけで救われる」と、いつも
聞かせてくださっているが、それは、表向きだけのことで、
実は、あのような修行をしなければ、助からないのであろう」と聞いた。
道宗は、
「とんでもない、わしの言うことには、裏も表もない。わしのような
しぶとい人間は、布団の上に寝ておれば、ご恩をご恩とも思わずに、
一晩中 寝てしまうから、せめて、眠りにくいようにして、
痛みで目が覚めた時だけでも、如来様のお慈悲を思わせていただき、
念仏 申させてもらおうと、思うだけぢゃ」と言った。
その五
蓮如上人が吉崎に滞在されてから四年後、文明七年(一四七五)
八月二十一日、戦国の動乱で吉崎御坊が焼失した。
蓮如上人は、過激になっていく一向一揆を鎮めるためもあり、
翌、二十二日の深夜に、鹿島の浦から船に乗って、吉崎を離れられた。
その時に、船に乗り、蓮如上人のお伴をされた三人の中の一人が 道宗であった。
道宗は、蓮如上人の所へ参れば、相当の期間 おそばにおられ、
蓮如上人にとって、信頼の厚い門徒の一人であったことが うかがえる。
その六
道宗は、各地の同行を訪ねて、蓮如上人の教えを伝えていた。
やがて「道宗の名声」が高まるにつれ、一部の人から
「道宗さんは、念仏売りだ」と、悪口をいわれるようにもなった。
ある時、道宗は、村人を数人連れて、京参りに出かけ、
一緒に行った者達が、無事に帰って来たものの、道宗一人だけ 帰って来なかった。
伯父の浄徳が心配をして、
「弥七は、まだ戻らないが、どうしたのであろうか」
と 一行に尋ねると、
「道宗殿は、「念仏売り」だから、方々で、同行に留められ、
いつ、帰ってくるか わからん」
と、少しのねたみ と そしり心が混じった言葉を返した。
何日か後に、道宗が戻り、家の縁に腰かけて、草鞋の紐を解こうとすると、伯父の浄徳が
「今、帰ったのか。在所の人が、そなたのことを「念仏売りじゃ」と
申しているから、これからは、みんなと一緒に帰るがよい」と注意した。
道宗は、驚き、「念仏売り とは、何としたことだ、そう言われては一大事だ」と、
すぐに草鞋の紐を縛り直して、京へと戻り、蓮如上人にお尋ねした。
蓮如上人は
「何を心配している。念仏売り とは、結構な名前ではないか。
念仏を大いに売るがよい。売り広めて もらわねばならぬ。
しかし、情けないことに、売る手も、買い手も、少なくて困る。」
と仰せられた。道宗は、また、このお言葉に勇気づけられ、帰って行った。
道宗は、細心の注意を払って、教えを伝えておられたことがうかがえる。
その七《 井波別院瑞泉寺の道宗打ち 》(鐘と太鼓の同時打ち)
瑞泉寺では、一月一日午前一時に、親鸞聖人にお酒とお屠蘇をお供えする献盃式が終ると、
鐘楼堂と太鼓堂から「ドーンガーン、ドーンガーン」と「梵鐘と太鼓の同時打ち」が始まります。
その由来は、蓮如上人が瑞泉寺に ご滞在中のある年の元旦、特に 雪が深い日のことでした。
道宗が到着しない中に、お朝じを勤める定刻となりました。
蓮如上人は「必ず 道宗が来るから 待て」と仰せられて、太鼓を打つ人も
梵鐘を撞く人も、道宗の無事を念じて、裏山の尾根に眼を凝らしていました。
一方 道宗は、深雪に 一度は挫折して、尾根に坐り込んでいたのですが、
懐中していた仏様に励まされて、再び、雪に体当りするように歩き始めていたのです。
やがて、白い尾根に黒点がひとつ!
「ヤレ、道宗が来た! 待っていたぞ! もう一息だ! 頑張れ!」
皆の熱い思いが一つになって、「ドーンガーン、ドーンガーン」と太鼓と鐘を
鳴らしたのでした。
そうして、道宗は、転がるように、瑞泉寺に着き、お朝じが始められたのでした。
それから五百年、「鐘と太鼓の同時打ち」を「道宗打ち」と称して、
瑞泉寺独特の尊い 元旦の伝統となったのです。
次に、棟方志功さんの ご紹介です。
土徳が育んだ「世界のムナカタ」
後に「世界のムナカタ」とまで呼ばれるようになる棟方志功(一九〇三‐一九七五)が初めて富山県福光町を訪れ、作品を制作したのは、日本の敗戦の色濃く漂っていた昭和十九(一九四四)年の五月のことである。
民藝運動を通じて昭和十四年ごろから親交を深めていた高坂貫昭が住職を務める光徳寺に滞在していたが、寺の裏山を散歩中にツツジを見ていて突然インスプレーション(突然のひらめき)が沸いたらしく、寺に戻って墨汁で一気に襖絵を描く。これが「華厳松」であり、志功の作風に画期的な変化が表れ始めた作品として知られる。
作家の長部日出雄が著した志功の伝記『鬼が来た!』には、
「志功の描き方は、体ごと筆を襖に叩きつけているようだった。
あたかも狂ったように激しく右に左に動き回る・・」とあるが、
周囲には墨が飛び散り、寺の関係者を大いに驚かせた に 違いない。
志功は昭和十二(一九三七)年に発表した版画「華厳譜」で既に宗教的境地を現している。これは十一年に柳宗悦、河井寛次郎らと知り合い、二人の師から
仏教を学んだ影響と見られている。以来、その作品はますます宗教色を強めていく。
棟方は「他力の国」に留学した
福光へ来てからの志功の作品の変化について、柳は「『我』が消えている」と評価したそうだ。それは、「富山では、大きないただきものを致しました」(『板極道』)という志功の有名な言葉に表れているように、南砺の真宗の伝統が 志功に内面的な転換を もたらしたのだろう。司馬遼太郎が この文を読んで驚き、
「棟方志功は疎開したのでなく、留学したのでないか。自力の国から 他力の国へ留学したのだ。それで 世界の棟方になった」と書いている。
地元の人たちも、最初は「東京から ピカソみたいな型破りの芸術家が この田舎にやってきた」程度の気持ちで 受け入れた と みられるが、
この地の念仏の生活に溶け込んで 棟方の姿は、素朴な人柄と ともに
次第に地域の中で愛されるようになっていく。因習が まだ残る南砺地方にあっても、福光の地には 外部から来る人を 優しく受け入れる気風があったのだろう。
請われれば気軽に絵を描いてあげる おおらかな人柄のため、ファンが増え、
停車場勤務のファンは 志功に 入手困難な切符 を 特別に回してやった という話も残っている。
心を開いた志功も精力的に活動している。創作に 励むだけでなく、城端別院で「棟方志功画業展観」を開催し、高岡市では「日本芸業院展」を主宰したほか、新聞の夕刊に挿絵を連載したり、同紙の特派員として「天皇拝従記」を書いたりして、地元に親しんだ。
志功は 戦争が終わっても昭和二十六年十一月まで福光に滞在し、数多くの作品を制作した。よほど この地が気に入ったのだろう。
志功の作品は 福光美術館と棟方志功記念館「愛染苑」に 数多く展示されている。
両施設は 作品を鑑賞するだけの施設でなく、志功を育てた「土徳」のメモリアルホールでもあろう。
旅の手帳 北陸の観光文化情報誌 季刊『彩都』 より
(二〇〇七年一月二十日 石川県金沢市高岡町(株)アドマック発行)
いかがでしょうか・・
井波別院・城端別院を中心として、北陸には、不思議な土徳があります。
この土徳は、ひとえに、
先人の方々が、素晴らしい浄土真宗の教えに出会い、
後の人達にも この浄土真宗の教えを大切にしてほしい、と願われて、
私達の世代にまで、何とか伝わってきたことです。
その浄土真宗の教えが、現在 趣味・教養のように思われて、
浄土真宗を大切に思えない方々が増えてきて、
コロナ以降、急速に仏教行事の簡略化が進んできています。
土徳の ありがたさを見直す と ともに、
本当に素晴らしい、先代の方々が感動した浄土真宗の教えを今一度、
私達 僧侶が伝えていかなくてはいけない、と思うことです。 合掌
高岡教区2組 通信員 吉江 晃